top of page

​寄稿SS保管庫

<朝焼けの色を歌って>

 ※この一般公開版は、平成の中頃にインターネット上で公開していたものです。
 当時のタイトルは「優しい激動」でしたが、今回の寄稿にあたり「朝焼けの色を歌って」に変更しました。
 また今回同時に寄稿させて頂いた小樽エンド版ですが、Chapter2の展開が飛行機エンド版とは異なります。
 小樽エンド版は今回が初公開となるため、区別するために飛行機エンド版と表記しました。
 小樽エンド版についての説明は、そちらのページをご覧くださいませ。
 後書きも本作とまとめて小樽エンド版の後に書いています。
 それでは少しの間、本作を楽しんで頂けたら幸いです。

<chapter1>

 極東ロシアはナホトカの海岸。
 西に傾きかけた夕日の下で、波打際を白浜進次(しらはましんじ)とターニャ・リピンスキーはお互いに寄り添って歩いていた。
 遅い春の訪れを伝える春の風は、優しく二人の髪を揺らしている。
 水平線には霧がかかって、白く霞んでいた。
「遠くの海が霞んで見えるね」
「はい。ナホトカから見える海はよく霧がかかるんですよ」
「そうなんだ、なんか幻想的な景色だね」
 進次が小さくため息を漏らした。
「私もそう思います。私がナホトカを出たときと少しも変わらない、私の大好きなナホトカの海です……」
 そう言ったターニャは髪を掻き揚げて、どこか遠いところを見つめていた。
 もうこの世にはいない父といっしょに、この海を歩いたときのことを思い出しているのかもしれない。
 進次は思った。
 生半可な覚悟でロシアを出たわけではないだろう、父の遺品をすべて捨てられた悲しみは計り知れないものがあるだろう。
 自分が知らない、経験したことのない深い感情。
 夕日に照らされて遠い目をするターニャを見つめながらそう考えると、進次の胸に熱いものが込み上げてきた。
「この海の向こうは日本です」
 ターニャはつぶやき、視線は遥かな日本に向いていた。
「夕日の色は……日本もロシアも変わりませんね……」
 そういって振り向いたターニャの瞳には、うっすらと涙が夕日に反射して輝いていた。
 そして進次とターニャは惹かれあうように、お互いを強く抱きしめた。
「ターニャ……」
「進次さん……」
 夕日は人を感傷的にするのかもしれない、二人はお互いの名前を呼び合った。
 進次の腕に抱かれるターニャは、柔らかくて、細くて、これ以上強く抱きしめたら折れてしまいそうだ。
 しかし進次は知っている。
 この細い体の中に、誰よりも強い意志が、感情があることを。
 そして、それが何よりも優しくて、大切なものであることを。
「進次さん……」
 もう一度愛しい人の名前を呼ぶターニャ。
「私、進次さんに会えて、本当によかったです」
「僕もだよ。ターニャがいない人生なんて考えられない」
 ターニャのか細い声に、進次は心の限りの感情を込めて応えた。
 それを聞いたターニャは、進次の胸に顔を押し付けて進次を抱く腕に力を込めた。
 進次は背中に、その力を、溢れんばかりの感情とともに感じる。
 それを受けて、進次はターニャの髪を優しく撫でた。
「ターニャのことは僕が守るよ。どんな辛いことからも。だから……」
 一瞬だけ言葉を切った。そして、
「これからも、ずっとずっといっしょにいよう」
 優しく、でも強い激情をこめてターニャに告げた。
 それを聞いたターニャの瞳からは一筋の涙が零れた。
 それは悲しい涙ではなく、心の底から溢れ出た歓喜の涙。
「……ありがとうございます……」
 二人のシルエットは、夕焼けの赤に照らされて長い間ひとつになっていた。
 後には、寄せては返す波の音がいつまでもいつまでも続いていた。

「ふぅ」
 進次は小さく息を吐いて、ベッドの上に寝転んだ。
 ターニャの実家にある来客用の寝室を借りているのである。
 日が大地に沈む頃には、二人はターニャの実家に帰ってきた。
 そして、夕飯をごちそうになった。
 黒パンに大麦の入ったスープ、他に野菜の塩漬けや魚の燻製を切ったものなど、シンプルなロシアの家庭料理だった。
 初めて食べるその味は、とてもおいしくて進次にとって忘れられない味になった。
 食事中は、ターニャの両親はもちろん日本語が喋れないし、進次もロシア語はターニャに少し教わった程度でほとんどわからないので、ターニャに通訳をしてもらってようやく意思の疎通ができた。
 それでもターニャの両親がいろいろ気を使ってくれたのは、よくわかった。
 お養父さんはずっと無愛想だったけれども。
 初めての海外、ターニャといっしょのロシア。
 ターニャの心の葛藤。
 二人のこれから。
 いろいろな考えが頭をグルグル回転した。
 そうしているうちに、どのくらい時間が過ぎただろうか。
 コンコン
 そのとき、部屋のドアを叩く音がした。
「ターニャです。少し……いいですか?」
「うん、開いてるから入って」
 進次は体を起こして、それに応えた。
「失礼します」
 そういうと、部屋のドアが開いてターニャが入ってきた。
 入ってきたターニャは気のせいか、少し目が赤い気がする。
「起こしてしまいましたか?」
「いや、なんだか眠れなくてさ。隣、座りなよ」
 進次はターニャを自分の隣に招いた。
 無言で座ったターニャは、手を膝の上に置いて握りこぶしを作ると、それをじっと見つめている。
 そして、ゆっくりと語り始めた。
 自分と養父のことを。

 私、お養父さんと話し合ってきました。
 お養父さんが父の思い出の形見をすべて壊したことを。
 私がいなくなってからどうしていたのかを。
 お養父さんは死んだ父が怖かったんです。
 お母さんや私の心に父が留まり続けて、自分を受け入れてくれないんじゃないかと。
 だから父の残したもの、あのベネチアングラスも、何もかも叩き壊してしまったんです。
 そのことは今でも怒りを感じますし、簡単には割り切れません。
 でも、お養父さんは泣きながら私に謝ってくれました。
 私やお母さんの気持ちも考えずにって、臆病だった自分を許してくれって。
 そんなお養父さんを見て、私思ったんです。
 もしかしたら、私もお養父さんのこと、なんにも考えていなかったんじゃないかって。
 あのときの私は死んだ父の幻影だけを追いかけて、全てを心にしまいこんで、それだけだったのかもしれません。
 アクトロイ スワヨー セルチェ、オープン ユア ハート。
 大好きだった父の言葉も本当の意味ではわかっていなかったんです。
 だから日本に行って……いいえ、逃げてしまったんですね。
 そんな私をお養父さんもお母さんも必死になって探したそうです。
 警察にも連絡して、何も手につかなかったって言ってました。
 心を開くどころか、心の中に逃げ込んで、いろいろな人に迷惑をかけてしまいました。
 ひどいですよね、私……。
 ……私、お養父さんとお母さんに日本で暮らしているとちゃんと伝えました。
 そして、これからも日本で生きていくって。
 二人とも驚いていましたけど、私の選んだ道なら好きに歩きなさいと行ってくれました。
 そして三人で泣いちゃいました。
 ダメですよね、今までいっぱい心配かけたのにまた泣かせちゃって……。
 ロシアはもう極寒の地じゃなくなりました。
 両親のいるあたたかい国です。
 だから必ず帰ってくるって言いました。
 年に一回でも二回でもできる限り。
 そのときはもっといっぱいいろんなことを喋ろうと約束しました。
 そのときは進次さん……私の隣にいてくれますよね?

 滔々(とうとう)と語っていたターニャが、全身の力が抜けたかのように体を進次にあずけてきた。
 進次はそんなターニャの肩を優しく抱いて、自らのほうに引き寄せた。
「当たり前じゃないか、ターニャの未来は僕の未来、ターニャの歩く道は僕の歩く道だよ」
「はい……」
 それだけ言うと、ターニャは進次の胸に顔をうずめて小さな嗚咽をもらした。
 進次はターニャが泣き終えるまで、ただ優しく抱きしめていた。

 どれくらいの時間がたったか。
「ごめんなさい、長居してしまって。明日は早いのに」
「いいんだよ」
「明日の今ごろはもう日本ですね」
 ターニャは寂しそうに言った。
 春休み中の進次と違って、ターニャは社会人である。
 今回の帰郷も、運河工藝館のオーナーに無理を言ってお休みをもらったのだ。
 飛行機も毎日飛んでいるわけじゃないから、実家にいられるのは今日だけなのである。
「それじゃあ、私もそろそろ部屋に戻りますね」
 ターニャがベッドから立って、彼女の顔が離れていく。
 進次は、何故かそれがいつにも増して寂しかった。
 しかしターニャはすぐにはドアに向かわず、進次に向き直った。
「どうした……」
 進次が言い終わる前に、その口はあたたかいもので塞がれた。
 ターニャの柔らかい唇が、進次の唇と重なる。
 永遠にも似た一瞬の後、ターニャが進次から顔を離した。
「ふふ、おやすみなさいの前のキスです」
 ターニャが頬を赤らめて、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「……うん、いい夢が見られそうだ」
「よかったです。それじゃあ……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
 お互いに眠りの挨拶を交わして、ターニャは自室に戻っていった。
 故郷に帰ってきて、過去の荷物を降ろして未来に生きるターニャは、ちょっとだけ積極的だった。
 進次も寂しさもどこかへ行ってしまった。
 初めての異国の夜、きっといい夢が見られる。
 そんなことを考えながら、進次は深い眠りの世界へと落ちていった。

 朝、ナホトカのバスターミナル駅。
 バスの前で進次とターニャ、ターニャの養父と母が向かい合って立っている。
 日本へ向かう飛行機に乗るために、ナホトカからバスで空港のあるウラジオストックに向かうためだ。
 ターニャは、養父と母と名残惜しそうに喋っている。
 進次はロシア語がわからないので、何を喋っているかさっぱりなのが残念だと思った。
 別れの抱擁を両親と交わすターニャ。
 三人の目にはうっすらと涙が浮かび、それを見た進次も熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「ダスビダーニャ……」
「ダスビダーニャ……ターニャ」
「……ダスビダーニャ……!」
 お別れの言葉を交わす三人。
 ターニャが二人から離れると、養父が進次に向き直った。
 そして進次にロシア語で何かを話しかけ、何かのボトルを手渡してきた。
 進次がそれを受け取ると、少し顔を赤くしてターニャが通訳をしてくれた。
「お養父さんはこう言っています。俺の娘をよろしく頼む。そして、次にここに来るときはそれを飲めるようにして来い、と」
 進次がボトルに目をやると、そこにはロシア語で「ウォッカ」と書かれていた。
 それを見て、進次は覚えたての片言のロシア語で告げた。
「スパシーバ。ヤー リュブリュー ターニャ!(僕はターニャを愛しています!)」
 そして進次もターニャの両親と抱き合った。
 バスの発車時刻。
 二人は並んでバスに乗り込み、一番後ろの席を取った。
 すぐに扉は閉まり、バスはゆっくりと動き出す。
 ガラス越しに見える両親の姿がだんだんと小さくなっていく。
 ターニャは大きく手を振った。
 進次もそれに習って手を振った。
 両親も大きく手を振ってくれている。
 お互いに、お互いが見えなくなるまで手を振りつづけた。
 そして両親の姿が見えなくなってしまった。
 寂しそうに前に向き直ったターニャの目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
 進次は何も言わず、ターニャの肩を抱いて引き寄せた。
 ターニャはそのまま進次に体を預けた。
 そして声も上げず、拭うこともせずに、ただただ涙を流しつづけた。

 

bottom of page