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夕焼け堂のターニャさん
第一話<夕焼け堂>
~心を開いてありのままの自分を出せば、きっと理解しあえることが出来る。
あなたと出会って分かったことです。足りなかったのは……私の勇気だったんですね~
10年前、あなたと出会って気付いたこと。私はあなたと出会うまでは自分のことを異邦人と勝手に思い込んで、自分から壁を作っていました。
~アクトロイスワヨーセルツェ・オープンユアハート~
亡くなった父の言葉。その言葉の本当の意味に気付くことができたのはあなたのおかげ……。本当にあなたに出会えて良かった……。
頬を伝う涙で目が覚めた。なんだかとても懐かしい夢を見ていたみたい。
「ターニャ、おはよう」
隣りから声が聞こえる
「おはようございます」
彼に挨拶を返す。
「どうしたの? 泣いていたみたいだけど、怖い夢でも見たのかな?」
心配そうに私を気遣って優しい言葉をかけてくれる。
「いいえ、逆です。これは嬉し涙ですよ。とても懐かしい夢を見ました」
あなたと出会った頃の、私の人生を大きく変えた出来事。あの頃の記憶が鮮明に甦ってくる。
「そっか、なら良かった。どんな夢を見ていたのか気になるね」
彼が笑顔で答えた。
「うふふ、それは内緒です」
悪戯っぽく私も笑って答える。あなたのその笑顔が私を変えてくれたんですよ。
「それじゃ、朝食を作りますね」
わたしはそう言うと、トントントンと、軽い足取りで1階へ続く階段を下りていく。
今日も小樽は快晴で、絶好の観光日和です。
あ、申し送れましたが、私はターニャ・リピンスキーと申します。
隣りで寝ていたのは大和(やまと)さん。私の旦那様です。
大和さんとは10年前、彼が北海道の親戚のところに遊びに来ている時に知り合い、恋に落ち、数年前に結婚し、現在に至っています。なので現在は神楽坂(かぐらざか)ターニャが正確な私の名前になります。
詳しいお話はまたいつか……って私ったら誰に説明しているのでしょうか?
朝食を終えると、着替えを済ませ、店のドアを開き、店先に「夕焼け堂」と書かれた看板を立てかける。
ここ、夕焼け堂は日本の古民家を改装したこじんまりとした小さな建物で、中には硝子細工のアクセサリーや、グラス、工芸品が所狭しと様々な光を放ちながら陳列されている。
また、その一部のスペースにはマトリョーシカやメゼーニ塗りの置物など、ロシアの民芸品も並んでいる。
以前は小樽運河工藝館で硝子職人として働いていたのだが、数年前に地域住民や、観光客から惜しまれながらも、運河工芸館は長い歴史に幕を閉じた。
その後、工藝館の元店長の伝で、この古民家を紹介してもらい、この古民家を維持していくことを条件に、この建物を譲り受けた。それが26歳の時なので、現在はそれからさらに1年の月日が経過している。
お店の経営を始めて約1年……。当時は経営の何たるかも分からず、読んで字のごとく、右往左往しながら夫と二人で手探りの毎日。ここ最近で何とか軌道に乗り出したといった感じでしょうか?
夕焼け堂は小樽オルゴール堂から住吉町に向かう坂道の一角に位置しており、坂を登りきると、日本海を見渡せる。
この場所は旭展望台に次いで私のお気に入りの場所でもある。仕事が上手くいかなかった時や、落ち込んだりしたときなどは良く坂の上から日本海のさらにその向こう、祖国のロシアの方角を見つめる。もちろん、祖国が見えるわけではないけれど、この海や空が祖国と繋がっていると思うと、私は独りじゃないんだという気持ちになれた。
最近でも時々坂の上から海を眺めることがあるけれど、今までとは少し違う気持ちでやってくることが多いように感じる。
それは、隣に彼がいること。
辛いことや落ち込むことがあっても、今は隣に彼がいてくれる。辛いことは半分ずつ、嬉しいことは2倍。彼がいるだけでそんな感覚さえ覚える。
私も彼にとってそんな存在になれればと切に願う。
「さて、そろそろ開店時間ですね。今日も頑張りましょうね」
彼に向かってそう言うと、私は掛けてあったエプロンを付け、店に立った。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
本日最後のお客様を見送り、閉店の作業に取り掛かる。
レジを閉め、店内の掃除を済ませると、昼間の慌ただしさが嘘のような静かでゆっくりとした時間が流れ出す。
「お疲れ様です。あなたは先に上がってくださいね。私は工房で少し作業をしていますので」
彼に労いの言葉をかけ、私は奥にある工房に向かった。
「それじゃあ僕は2階で帳簿をつけているから、何かあったら呼ぶんだよ。あまり無理しないようにね」
優しい言葉とともに彼は2階へと姿を消した。
「さてと、それじゃはじめましょうか」
工房の奥では溶解炉の中でドロドロに溶けた硝子が赤く熱を帯びている。その温度は1200℃にもなる。
私は髪を掻き上げ、後ろでひとつに結った。そして、吹き竿を手に取り、溶解炉の中に差し入れる。竿の先端に丁寧に高温で溶けた硝子を巻き取る。
巻き取った硝子を作業ベンチに運び、綺麗に形を整えれば、反対側の吹き竿の先端から息を吹き入れ、「下玉」と呼ばれる一層目の硝子玉を作り上げる。
グラスを作る第一段階が終了する。
ふぅ……っと一呼吸置き、額の汗を拭う。
「ここまでは順調です」
下玉を冷ましたら再び硝子玉を溶解炉の中に入れて2層目の溶けたガラスを重ね巻きしていく。重ね巻きが出来れば、溶解炉から引き出し、再び形を形成していく。この時点で様々な装飾や着色をし、グラスに個性を持たせていく。ひとつとして同じものはなく、世界にひとつだけのグラスが生まれていく。
装飾が終了すれば吹き竿から息を吹き込み、グラスの形を形成していく。その後、竿元部分を「ハシ」と呼ばれる道具を使用し、細く絞ってゆく。膨らんだガラスの先端部分を平面になるように圧縮し、グラスの底の部分を形成したら、「ポンテ」と呼ばれる別の竿で前後を反転させ、先程細く絞った部分に少量の水をつけ、吹き竿と切り離す。
「あと少し……」
ポタポタと額からは大粒の汗が地面に向かって落ちてゆく。
切り離した硝子の先端の空洞から大きなピンセットのような道具を差し入れ、ゆっくりと口を広げ飲み口を作る。
何度か焼き戻しを行い、最後に竿とグラスを切り離す作業に取り掛かる。
軽く竿を叩いて振動を与えると、キンという小気味よい音を鳴らし竿からグラスが分離する。
その後は高温の部屋に移し、翌日までゆっくりと常温まで冷ませばグラスの完成……。
額の汗をタオルで拭き取り、椅子に腰を掛け、大きく深呼吸をする。
「調子はどう?」
不意に後ろから聞き慣れた彼の声が聞こえた。
「お疲れ様。冷たいアイスコーヒーでもいかが?」
私の作業の終了を見計らって、工房に彼が入ってくる。
「わぁ、ありがとうございます。もう喉がカラカラです」
慣れた手付きで彼が、アイスコーヒーにミルクとフレッシュを入れ、マドラーでかき混ぜる。アイスコーヒーはあっという間に黒から琥珀色に色を変え、カランカランと氷と氷が涼しげな音を奏でている。
「はいどうぞ」
私はグラスを受け取ると、クイっと一気にグラスの1/3のアイスコーヒーを喉に流し込んだ。冷たい感覚が喉の奥に流れ込み、程よい甘さが集中して疲れた身体に染み渡る。
そして何より、彼が私の好みの味を把握してくれていて、さり気なく差し入れてくれるというのがたまらなく嬉しかった。
「どう?グラス作りは順調に進んでる?何だか特別な物みたいだけど……」
「はい。順調です。あと数個作れば予定通り終了です。このグラスはある人からの依頼なのです」
「へぇ、そうなんだ?ターニャにとって大切な人なんだね。ちょっと妬けるなぁ」
彼が悪戯っぽく笑う。
「い、いえ、大切な人といっても女性ですよ?!」
突然の彼の言葉に狼狽える。
「はは、冗談だよ。あまり根を詰め過ぎずに頑張ってね。それじゃ、夕食にしようか」
時計の針はすでに21時を回っていた。
つづく