top of page

北へ。アンソロジー

<椎名薫の診療記録>

椎名薫の診療記録

 頭の中で何かが鳴り響いている……。
 ピッ、ピッ、ピッと規則的に電子音が聞こえてくる。その音の間隔が徐々に長くなってくる……。
 そして最後には、ピ―――――っという直線的な音に変わる。
「先生、心停止です!」
 モニターを見ながら誰かが叫んだ。
 そこでようやくそれが夢だということに気が付き、私は目を覚ました。
「ハァ、職業病っていうやつかしらね……」
 眠っていても時々ナースコールや、モニター心電図の音が鳴り響いているような錯覚に陥り、目が覚めることがあるのだ。
 私の名は椎名薫。札幌にある北海大付属病院第1内科で医師をしている。
 荻野吟子という医師をご存知だろうか? 明治18年に医師免許を取得した日本初の女医である。当時はまだ医学の世界は女人禁制の傾向があり、周りからかなりの嫌がらせを受けたらしい。けれどその困難から逃げ出すようなことはせず、自分の意思を貫き通した結果、彼女は見事に医師となり、人々の健康維持のために日々貢献してきたのだ。
 そんな彼女の生き方に憧れて、24歳のときに医師免許を取得し、早くも3年が過ぎた。
 医師といっても最初の2年間は研修医として主に先輩医師の指導を受けながら様々なことを学んでゆく。
 指導といっても実際のところは体(てい)の良い雑用係だったりする。もちろん、良い先輩に当たればきっちりとした指導を受けることも出来るのだろうが、大抵の輩は教授に好かれようと必死でそれどころではないのだ。要は知識や技術は自分で盗めということなのだ。
 そんな人間の嫌な部分を見ながらも、何とか研修医期間を乗り越えてすでに1年。まだまだ一人前と呼べるには程遠いけれど、私は現在内科医としてこの北海大学付属病院に勤めているのだ。
 そして今日は非番だというのに、鳴ってもいなモニターの音のせいで朝早くから目が覚めてしまったわけだ。
「うーん、今から二度寝って気分じゃないわね」
 両腕を伸ばし、目一杯伸びをする。徐々に寝ぼけた頭が冴え渡ってくるような感覚……。この感覚が私は好きだ。
 手短に朝食を済ませると、着替えと化粧をさっと済ませ身だしなみを整える。その間約30分。
「これもある意味職業病よね……」
 医者という職業柄、業務は時として一刻を争うこともあり、何事も無駄なく効率良くこなしていかなければならない。そのため食事等に費やす時間はほとんどなく、何かあればすぐに対応できるように準備しておかなければならないのだ。
「非番だから急ぐ必要なんてないのに、困った習慣よね」
 ポツリと独り言を呟く。
 窓を開けると、暖かな日差しと爽やかな風が部屋一杯に入り込み、とても心地良い。マンションの14階ということもあり、周りには目の前を遮るものがないため景色もそれなりに綺麗だ。
 6月の札幌は平均気温が約17℃で、最高気温でも21.5℃程度なのでとても過ごしやすい時期だと言える。内地のようにジメジメとした梅雨もないため、とても快適だ。道東の方では本州の本格的な梅雨ほどではないが、蝦夷梅雨という北海道ならではの梅雨のような雨が2週間程度続くことがあるようだけれど……。
 こんな天気の良い日に家の中に引き篭もっているのは不健康でとても勿体無く感じる。唯でさえ普段から病院の中に閉じこもっているわけだし……。
 そういえば最近趣味である読書をする時間もなかったことを思い出す。せっかくの休みなのだからドライブを兼ねて、本屋めぐりなんていいかもしれないわね。
 そうと決まれば、1分1秒が惜しい。私は外出用の鞄に財布と携帯電話を放り込み部屋を出た。
 エレベーターで1階まで降りると、駐車場を目指す。程なくすると、オレンジ色の小さなスポーツカーが視界に入った。私の愛車、フィアット・バルケッタだ。
 私の住んでいるマンションは駐車場も屋内にあるため、直射日光や雨を気にしなくてすむため、車にとってはありがたい。
 バルケッタというのはイタリア語で「小舟」という意味で、その名の通り、全長3920mm、全幅1640mmのコンパクトなボディに総重量は1090kgの曲線が美しい車だ。
 というのはネットで調べた情報で、実は私自身は車に全く詳しいわけではない。見た目に惚れて購入したというのが実際のところだったりする……。
 私は運転席側にあるトノカバーのオープンノブを引き、フロントウィンドウの両サイドにあるレバーを回すと幌の接続を外した。幌をそのままトノカバーの中に収納し、きっちりと閉める。
 慣れてしまえば女性の私でも2~3分程度で幌の収納が可能だ。
「この時期はやっぱりオープンよね」
 改めて運転席に座り直し、エンジンをかける。曲線の多い女性的な外観とは裏腹に力強い排気音が響き渡る。
 左ハンドルの5速MT。慣れるまでは少し戸惑いはあったけれど、慣れてしまえば小回りも利くのでとても運転しやすい車だと個人的には思っている。とは言え、この車以外の車は運転したことがないのだけれど……。
 国産車と違い、ウィンカーと指示器が逆になっているので、焦ると時々指示器の代わりにウィンカーが動くのはご愛嬌……。
 クラッチを踏み込み、シフトノブをLOWに放り込む。軽快なエンジン音と共に私は街に繰り出した。

 今日の札幌の最高気温は20℃とのこと。時刻は10時を過ぎたところだ。現在は18℃ってところかしら?
 目の前からやって来る心地よい風を身体で感じながら車を走らせる。これぞオープンカーの特権。
 クラッチを踏み込み、シフトノブを3速から4速に放り込む。速度が上がるにつれて景色はどんどんと後ろに流れてゆく。
 マンションを出てから30分程経過しただろうか? 車は目的地である市街地の書店に到着した。
 私は風で乱れた髪を整えると、書店に入り、迷うことなく小説がズラリと並ぶスペースへと足を運んだ。
 趣味が読書というと、履歴書に書くプロフィールみたいだけど、実際その通りなわけで、多いときなら月に10冊は読んでいるだろうか? 本なら大抵のものは好きだけれど、ミステリー系の小説を読むことが一番多いかもしれない。
 新刊のコーナーを物色していると、1冊の本が目に入った。その本の帯には「待ちに待った待望の続編!」と書いてあった。著者は日比野喜氏で、本のタイトルは『激突!! それから……』。
「あら、続編が出たのね。前作を読んだのは3年くらい前だったかしら……」
 前作の激突!! は人を怨む力、怨恨の「怨」の力が強い主人公が人を怨むと、怨まれた相手が不幸になっていくという話で、最後には主人公自身にもその不幸が降りかかってしまうといった内容だったと記憶している。それにこの本にはストーリー以外にも思い出があったりするのだ。
 少し昔を懐かしみながら本を手に取る。どうやら前作の主人公のその後のストーリーが描かれているようだ。
 他にも色々と見て回ったが、これといって気になるような本もなかったため、先程の『激突!! それから……』を購入することに決めた。
 入り口近くにあるレジに向かい、会計を済ませた。これで当初の目的であった本を買うという目的を達成してしまったため、本日の予定が終了してしまった。
「さて、どうしたものかしら……」
 左腕の腕時計に目をやると、いつの間にか時刻は12時30分を過ぎたところだった。思いの外、長居していたようだ。
 携帯電話が普及した現在、腕時計をしていない人が増えたように感じる。常にすぐに取り出せるところに携帯電話を携帯しているので、腕時計の重要性が低くなったのだろう。しかし、私の場合、職業柄脈拍の測定や、点滴の滴下速度の計算時などに腕時計を必要とするのだ。
 そのため、普段から勤務中でも仕事が休みの時でも腕時計を着けていないと落ち着かないのだ。ある意味これも職業病なのかもしれない。
 とはいえ、携帯電話も急な呼び出しなどの対応に備えてすぐに取れるように鞄の外側のポケットに入れている。
 そんなことを考えていると、私の携帯電話の着信音が鳴った。一瞬病院からの呼び出しかと思い、ドキッとしたが、この着信音に設定している相手はひとりだけ……。私は違う意味で少し緊張しながら、携帯電話の通話ボタンを押した。
「はい、椎名です」
「あ、薫さん? 今日は確か仕事休みだったよね? 今電話大丈夫かな?」
 携帯電話越しに彼の声が聞こえる。
「私は大丈夫だけど、あなたこそ大丈夫? 今学校なのよね?」
「急に午後から休校になってね。実は今、札幌駅にいるんだ。だからもし時間あったら一緒にランチでもどうかなって思ってさ」
 幸いにも本日の予定は先程の本屋めぐりで終了している。すなわち、時間は有り余っているのだ。
「そうね、どうしようかしら?」
 予定なんてないのに、しばらく考えている素振りを見せる。特に深い意味はないのだけれど……。
「いいわ。それじゃ今から迎えに行くわ。実は割りと近くにいるの。いつもの大通りまで出て待ってて。15分……いえ、12分で行くわ」
「あ、薫さん、急がなくていいから安全運転で……」
 電話を切ると、急いで駐車場に戻る。何かまだ話していたような気がしたけれど、まぁ良しとしよう。
 車に乗り込み、シートベルトを締め、エンジンをかける。ゆっくりと走り出したバルケッタとは逆に、気持ちはすでに2,3メートル先を走っているような感覚……。早く会いたいという気持ちの表れだろうか?
「柄にもなく完全に浮かれちゃってるわね」
 27歳にもなって電話ひとつで年頃の女の子のように浮かれている自分に少し驚きを感じた。誰かを好きになると、どんどん自分も変わってゆくものだと改めて思う。
 一人じゃ出来ないもの…にらめっこ、腕相撲、卓球、恋愛…そして、待ち合わせ……。

 車を走らせ、札幌駅近くの大通りに差し掛かったところで、見慣れた顔を発見した。
 気付かれないように深呼吸をし、平生を装って彼の前で車を停車させる。
「お待たせ。1分遅刻しちゃったけど。乗って。あ、車に気を付けてね」
 バルケッタは左ハンドルのため、彼が乗り込む助手席は歩道側ではなく、車が走ってくる道路側になるのだ。
「ありがとう。こっち側に座るのも大分慣れてきたよ。最初は何だか自分が運転席に座っているみたいで違和感があったんだけどね」
 シートベルトを締めながら彼が言った。
「慣れるのに随分とかかったのね。もう3年近く経つと思うけど?」
 彼の名は水無月涼(みなつきりょう)。年齢は二十歳。初めて出会ったのは約3年前……。札幌から研修で東京に行った際に帰りの新千歳空港行きの飛行機で偶然隣の席に座っていたのが彼だったのだ。確か彼が私の座席のシートベルトと自分の座席のシートベルトをこんがらがって付けてしまったのがきっかけだと記憶している。
 その時は、ただ北海道に旅行に行こうとしている高校生としか思わなかったし、二度と出会うことなんてないと思っていたのだ。今から考えればあの時の私はかなり素っ気ない態度だったかもしれない。
 札幌に戻ってからは、そんな出会いがあったことさえ覚えていなかった。だけど私は再び彼に出会ったのだ……。
 北海大付属病院で勤務している私は、休憩時間には敷地内のベンチで読書をするのが日課になっていた。そこに再び彼が現れたのだ。札幌という大きな都市で見知らぬ二人が何の連絡もなしに再び出会える確率はどれくらいあるのだろうか? きっと限りなく0に近いのではないだろうか?
 その出会いをきっかけに、彼はこんな素っ気ない私に興味を持ってくれ、北大のベンチに足を運んでくれるようになり、現在に至っているのだ。本当に彼はおかしな子だと思う。
 そんなことを考えていると無意識のうちに口元が緩んでしまう。
「薫さん? 何笑ってるの?」
 不思議に思った彼が尋ねる。
「な、何でもないわ。それよりお昼は何を食べるか決まったの? あなたが誘ったんだから決めてくれるんでしょ?」
 何とか話題を逸らし、私はまだ決まっていない目的地を探し、車を走らせた。

 20分くらい車を走らせると、本日の目的地に到着した。
「久し振りだなぁ。たまに無性に食べたくなるよね?」
 本日のランチに彼が選んだ場所は、マジックスパイス。通称マジスパ。札幌に住んでいれば知らない人はいないぐらい有名なスープカレーのお店で、スープカレーブームの火付け役となった店でもあるそうだ。
「何度か来たことはあるけど、随分久し振りね。じゃあ早速中に入りましょうか」
 平日ということもあって、それほど待つこともなく、席に案内してもらえた。余談だが、ここでは営業時間のことを「ガンバ時間」と呼ぶみたい。
 全体的に赤を基調としたエキゾチックな内装が印象的で、何とも落ち着かない……と思いきや、どういうわけか落ち着けてしまう独特な雰囲気の店内は何度来ても良い意味で不思議な感覚に陥ってしまう。
 案内されたテーブルに、二人向かい合わせで椅子に座る。
「さて、どのスープカレーにしょうかな?」
 メニューを開きながら彼が悩んでいる。
「薫さんは決まった?」
「ええ、私は北恵道(ほっけいどう)カレーにするわ。札幌店限定らしいわ」
「そうなんだ? 今まで何度か来てるのに、そういや注文したことなかったな。限定とあっちゃ、やっぱり頼まずにはいられないよね」
 宝物を見つけた子供のような無邪気な笑顔で彼が答える。見ているこちらまで何故か嬉しく感じてしまう…。母性本能がくすぐられるという言葉はきっとこういう時に使うのだろう。
 店員さんを呼び、北恵道カレーを2つ注文する。
「私は涅槃で。あなたは?」
「う~ん、じゃあ虚空に挑戦してみるよ!」
 店員さんは注文を取ると、キッチンの方へ向かって歩き出した。
「ちょっと、大丈夫? 虚空なんて食べたことあるの?」
 私は少し心配になって尋ねた。
 虚空、涅槃というのは、辛さの段階を表すレベルのことで、覚醒、瞑想、悶絶、涅槃、極楽、天空、虚空の順で辛さが増していくのだ。虚空とはすなわち、ここマジックスパイスで最大級の辛さということになるのだ。以前知人から聞いた話だと、実は虚空のさらに上には「アクエリアス」という辛さが存在するらしいのだが、もちろん私は食べたことがない。
「実は今までの最高記録は涅槃までなんだよね…。虚空は初めてだけど、何とかなるよ、多分……」
 ハハハと、彼は苦笑に近い笑みを浮かべながらそう言った。
「もう、知らないわよ、どうなっても。あなたってほんとに後先考えないわよね。まぁいいわ。何かあったら点滴でも注射でもしてあげるわ」
 右手で注射をするゼスチャーをしながら、悪戯っぽく笑って見せる。
「わ、注射はご勘弁……」
「ふふ、そうね。順調にいけば後2年もしないうちにあなたも点滴をする側になるんだものね」
 彼は東京の高校を卒業後、両親を説得し、札幌に引越し、一人暮らしをしながら札幌にある看護専門学校に通っているのだ。現在は2年生で少しずつ病院や施設への実習も増えてきたところだろうか?
「でも涼君、アナタが看護師を目指すなんて思ってもいなかったわ」
「そうだろうね。僕自身もビックリしてるよ。でもこれは薫さんのせい、いや、おかげかな? 正直僕には医者を目指せるほどの学力はないけど、少しでも薫さんに近付きたい、相応しい男になりたいと思ったんだ。その結果、看護師を目指そうと思ったんだよ」
 彼は恥ずかしげもなく、サラっと言い放った。
「あなたってほんと、歳も離れてるし、おせっかいで、しつこいところもあるし、生意気だし、物好きだし、おまけに無鉄砲よね……」
「わ、全然良いところないじゃん……」
 彼がシュンとうな垂れる。
「でもそういうとこ、私は好きよ。長所と短所は紙一重だしね。おせっかいは世話好き、しつこいは粘り強い、生意気は威勢が良い、物好きは好奇心旺盛、無鉄砲はチャレンジ精神旺盛とも言えるわ。歳下っていうのは……どうにもならないわね」
 そこまで話すと、一呼吸置いてさらに言葉を続けた。
「私に相応しい男になりたい。そう言われたらもちろん悪い気はしないし、嬉しいわ。でもね、あなたはとっくに私にとって大切な存在よ。それを忘れないでね。それと、理由はともかく、一度看護師を目指したのなら最後まで諦めずに頑張りなさい。私も協力は惜しまないから」
 言葉にこそしないが、彼は彼なりに私のことを考えて、少しでも近付こう、対等でいようと努力をしてくれているのがよく分かるし、それがとても嬉しいと感じる。どうにもならない歳の差を何か別の方法で補おうと考えてくれているのだと思うと愛おしく思う。
「ありがとう、薫さん。絶対に卒業して、国家試験に合格して看護師になるから! それに年齢差はどうにもならないかもしれないけど、薫さんを守っていける大きな男になるよ」
 ほんとに恥ずかしげもなく、真っ直ぐに私を見ながら彼は私にそう言ってくれる……。聞いているこっちが赤面しそう……。
「そういうところが生意気だっていうのよ」
 とんでもなく嬉しいのについつい大人振ってこんなセリフしか出てこない。素直なところは見習わなくてはいけないなぁ。
 そんなやり取りをしていると、テーブルに注文していたスープカレーが運ばれてきた。
 スパイスの香りが漂っていて何とも食欲をそそる。
 北恵道カレーはじっくりと煮込んだチキンレッグに大根や人参、キャベツ、白菜、インゲン等々の野菜がたっぷりとトッピングされたスープカレーだ。
 おそらく普段良く食べているカレーライスに入っていることの無い野菜ばかりのため、初めて食べる人は少し驚くかもしれない。
「それじゃ、いただきま~す」
 彼はサフランライスをスプーンで掬うと、スープカレーに浸し、口に運んだ。
「うん、思っていた程の辛さじゃないかな?」
 そう言ってさらに2くち、3くちとスープカレーを口に運んでゆく……。
「!? か、辛い!! 後からどんどん辛さが押し寄せてくる!」
 みるみるうちに彼の額からは大粒の汗が噴出してきたのが分かった。
「だから虚空で大丈夫? って聞いたのに……」
「う、うん…でも辛いんだけどそれだけじゃなくて、辛さの中にコクとキレ、そしてチキンと野菜の旨みが凝縮されていて凄く深い味わいに仕上がっているから手が止まらなくなるよ。透明感のあるスープからは想像もできないよ。それに少し固めのサフランライスとの相性もバッチリだよ」
 おしぼりで額の汗を拭いながら力説する。
「ふっふふ、あなたグルメレポーターになれそうね。聞いているだけで食べた気分になっちゃうわ」
 しばらく二人で他愛のない話に花を咲かせながらスープカレーを堪能する。
「そういや薫さん、今日は午前中は何をしてたの? 札幌駅の近くに居たみたいだけど……」
「別に何ってことはないんだけど、ちょっと本を買いにね。ほら」
 私は午前中に買った本を鞄から取り出して見せた。
「『激突!! それから……。』激突!! の続編なんだ? 何だか急に右腕が疼きだしたような……」
「あら? 大丈夫? 良かったら後でレントゲンでも撮りましょうか?」
 冗談っぽく笑ってみせた。
 約3年前の夏、北大付属病院の敷地内で、休憩から戻ろうとした私に向こう側からバイクが突っ込んできたことがあった。その際に私をバイクから庇って、彼は右腕の骨にひびが入ってしまうというアクシデントが起きたのだ。
 その結果、彼は数日間北大付属病院に入院することになり、その時の暇つぶしに私が貸した本が「激突!!」だったのだ。彼の中では軽いトラウマになっているのかもしれない。少し悪戯が過ぎたかしら?

 ―――――ガタン!!
 その時、後ろの方のテーブルの方から何かが倒れたような物音がした。
 後ろを振り返ると、後ろの席に座っていた女性が床に倒れていた。
 それと同時に店内の至るところがざわつき始めた。
 急いで彼女に駆け寄り、状況の確認を行う。年齢は40歳前後だろうか。
「大丈夫ですか!?」
 声をかけてみるが、返事はない。何度か呼びかけてみると、辛うじて聞こえる、消え入りそうなこえで小さく「はい…」と返答が聞き取れた。
「薫さん、この人凄い汗だ。熱でもあるのかな?」
 彼が倒れていた女性の額から流れ落ちる汗を見て言った。
「どうやら違うみたいね。これは冷や汗ね。テーブルを見て」
 テーブルの上にはボールペンやマジックペンの太さを二回り程大きくしたような形のものが置かれてあった。
「おそらくインスリンね。涼君、店員さんにコーヒーなんかに使うスティックシュガーを2本もらってきてもらえる? 至急でお願い」
 女性の脈拍を測りながら彼に指示を出す。
「分かった、すぐに貰ってくるよ!」
 時間にして1分程度で彼がスティックシュガーを持って戻ってきた。
「ありがとう。涼君、彼女を支えて座位にして姿勢を保持してくれるかしら?」
 彼女の体制維持を彼と交代し、素早くグラスの水にスティックシュガー2本を放り込み、スプーンで攪拌する。
「ごめんなさいね。少ししんどいと思うけど、砂糖水よ。ゆっくりでいいから飲めるかしら?」
 彼女に確認すると、彼女は頷き、ゆっくりと砂糖水を口に含んだ。
 しばらくすると、彼女の額からは汗も引き、表情も少し穏やかさを取り戻しつつあった。
「薫さん、これって……?」
「ええ、低血糖症状ね。テーブルの上に2種類のペン型のインスリンが置いてあるでしょ? 持続型のインスリンと、超速攻型のインスリンみたいね。状況から察するに、注文が来ているのにまだ手をつけていないところを見ると、おそらく彼女はいつも昼食前にこの2種類のインスリンを皮下注射しているみたいね。基本的に持続型は1日1回の注射で24時間緩やかに作用するように出来ているわ。それに比べて超速攻型は食事の直前に注射するのよ。ここからが本題なんだけど、持続型は1日1回だけど、割と多い量(単位)のインスリンを注射することが多いわ。逆に超速攻性のインスリンは糖尿病の度合いにもよるけれど、それ程多い量(単位)は注射しないのよ」
 そこまで説明すると一呼吸置いた。そして言葉を続ける。
「彼女の場合はこの持続型のインスリンをお昼に注射するようね。だから昼食前は持続型と、超速攻型の2種類を注射するのだけど、多分皮下注射するときに持続型と超速攻型の注射の単位数を逆に注射してしまったのね。結果、超速攻型のインスリンが作用しすぎて一気に血糖値が低下して低血糖症状に陥ってしまったんじゃないかしら。今砂糖水を飲んだから血糖も上がってくると思うけど……」
 私が担当している患者さんにも自己注射を誤って同じような症状を起こしてしまうケースが年に何度かあるのだ。
 そうこうしているうちに、彼女の顔色も良くなり、意識もはっきりしてきた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました。お話の方は聞こえていました……。お恥ずかしい話ですが、全くその通りで、どうやら単位数を逆に注射してしまったようです……」
 彼女は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「いえ、お気になさらずに。当然のことをしたまでです。無理せず椅子にお掛けになって下さい」
 彼女に椅子に掛けるようすすめる。
「おそらくまだ血糖はそこまで高くないと思いますので、先に食事をすることをおすすめします。その後で結構ですので、今のままだと持続型のインスリンの量がいつもより少なめに注射されているので、かかりつけの病院の担当医に相談して指示をもらって下さいね」
 私は軽く一礼し、その場を立ち去ろうとした。
「あ、あの…あなたは医療関係のお仕事をなさっているのでしょうか?」
 そう言って彼女に呼び止められた。
「自己紹介が遅れました。私、北大付属病院内科医の椎名薫と申します。それではお大事に……」

「はぁ、やっぱり薫さんはすごいなぁ。一瞬で低血糖だって分かっちゃうんだもんなぁ。僕なんか薫さんの指示が無かったら何も出来なかったよ」
 帰りの車の中で彼が呟く。
「何度もああいう患者さんを診てきたからよ。あなただって経験を積めばあれぐらい分かるようになるわ。最初は誰だって慌てちゃうものよ。でも次に同じような症状の人を見たら今日経験したことが活かせるわね」
 私だって研修医の頃は何もかも経験したことがないことばかりで良くあたふたと右往左往したものだ。
「でも覚えておいてね。勘違いしている人も多いけど一番偉いのは医者じゃないの。今日だってあなたが素早く砂糖を取ってきてくれたおかげで迅速な対応が出来たのよ。多職種連携ってやつね。簡単に言えばチームプレーね。医者が偉くて看護師はダメだとかそんなことは絶対にないの。みんな平等なのよ。まぁ偉そうにふんぞり返っている医者も多くて嫌になっちゃうけどね。だから上も下なく、あなたは患者さんを第一に考えられる看護師になりなさい」
 我ながら少し説教染みたことを言ってしまっただろうか。やっぱり歳なのかしら?
「ありがとう、薫さん。やっぱり薫さんは尊敬できる人だよ」
「あら? それだけ?」
「大好きだよ、薫さん!」
 そう言って彼が私の右頬にキスをした。
「ば、バカね……」
 少し顔が赤くなったのを夕日のせいにして車を走らせる。

 一人じゃ出来ないもの…にらめっこ、腕相撲、卓球、恋愛…そして、ほっぺにキス……。​

Fin

バルケッタ.jpg

あとがきという名のいいわけ

 皆様、こんばんは。sayです。
 今回は初めて薫さんのssを書かせていただきました。個人的には薫さんは、北へ。WIの中では葉野香と1,2を争うくらい好きなキャラだったりします。
 そのうちHPにもアップしようと思っているのですが、昔、薫さんが好きで実際に本物のオレンジ色のフィアット・バルケッタを購入したことがあります! ナンバーはもちろん薫さんの誕生日である1025にしましたよw
 間違いなく北へ。グッズで最高金額です!w
 それはさておき、今回のssですが、薫さんメインなので、少し医療系のイベントをやってみようと思い、今回のようなお話になりました。途中にインスリン云々の話がありますが、あくまで一例というか、手段のひとつですので、実際の処置や対応とは異なることもあるかと思いますのでご了承くださいませ。
 タイトルが「椎名薫の診療記録」といことで、出来れば今後も第2話、3話と続けていければと思うのですが、何分筆が重いもので、いつになることやら……。気長に待っていただければと思います。(いいわけ全開ですw)
 一応ssの設定としては、北へ。WIで薫さんが主人公と出会ってハッピーエンドを迎えてから約3年後のお話として書いていますので、薫さんが27歳、主人公(このssでは水無月涼(みなつきりょう)と命名)が20歳という設定です。いずれ二人でお酒を飲んでいるシーンなんかも書いてみたいですね。
 後は、お気付きの方もいるかと思いますが、北へ。WIのシナリオにも登場した本、「激突!!」なんかも登場させてみました。ニヤリとしていただければ幸いです。
 毎回書かせていただいていますが、読んで下さっている方あってのssです。これからもスローペースではありますが、何か書いていければと思いますので、読んでいただければ嬉しいです。それではまた、次回作でお会いいたしましょう。

2020.10月 say

bottom of page