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北へ。アンソロジー
<椎名薫の診療記録~クリスマスの奇跡~(薫パート)>
椎名薫の診療記録
~クリスマスの奇跡~(薫パート)
「ハァ……これじゃせっかくの休みが台無しね……」
ミーティングルームを出ると同時に溜め息がこぼれた。
「お疲れ様です。あれ? 今日は椎名先生休みじゃなかったですか?」
通路ですれ違ったナースが私に気付き声をかけてくれた。
「お疲れ様。そうなんだけど……臨時の医局会議があったの。ほんとツイてないわよね。よりにもよって今日だなんてね……」
今日は12月24日、クリスマスイヴ……。世間は普段よりも活気に満ちている。札幌に住んでいるのだからホワイトクリスマスなんて珍しくもないのだけれど、それでもクリスマスだけは降り注ぐ白い雪が何だか特別なものに見えてしまう。
とは言っても私、椎名薫にはクリスマスもお正月も特に関係ないのだけれど……。北海大付属病院第1内科、それが私の職場だ。
医師として働くことはもちろん嫌いではない。むしろ誇りにさえ思う。高校時代に日本人初の女医である荻野吟子という女性に憧れてこの道を志したのは何年前のことだろうか……。
せっかく休みにわざわざ出てきたのだからこのまま帰るのは何だか勿体無い。とりあえず院内に入っているカフェでコーヒーでも飲んで一息ついていこう。
私は足早にカフェへと向かい歩き出した。
カフェに到着すると、思いの外混雑しているようで、座席もほとんど空いていない状態だった。カフェとはいえ、ここは一応病院内で、クリスマスとはかけ離れた場所だというのに何だか不思議な感じだった。
私は飲み慣れたいつものコーヒーを注文しようとしたが、途中で気が変わりホットココアを注文した。コーヒー以外を注文したのは初めてのことだった。もしかしたら今日はクリスマスイヴということで、普段はしない特別なことをしてみたくなったのかもしれない。
「フフ、我ながら単純よね……」
幸いなことに何とか座席は確保できた。もう少し遅ければどこか適当なところで立ち飲みしなければいけないところだった。それでは当初の目的の一息つくどころの話ではなくなってしまう。
「ふぅ、たまにはホットココアもいいかもしれないわね」
ホットココアをひとくち口に含み、普段のコーヒーとは違った甘さを堪能する。
座席に座り、一息つけたことで周りを見渡す余裕ができた。入院患者やお見舞い客、当院の休憩中のスタッフ、スーツを着た取引先の業者……様々な人でカフェスペースは混み合っている。そんな中で一際目を惹く存在が私の視界に飛び込んできた。
金髪で少しクセのあるウェーブした長い髪で青い瞳の少女……。歳は高校生だろうか、10代後半といったところだろうか? コーヒーのカップを乗せたトレイを持ってキョロキョロと周りを見回しながら歩いている。おそらく席を探しているのだろう。
残念ながら空いている席は見当たらず、彼女はトボトボとこちらの方に向かい歩いてくる……。そして一瞬、彼女と目が合った。
「こんにちは。もしアナタさえ良ければ相席いかが?」
普段の私なら他人に声を掛けるような行為はまずしない。だけど、異国の地の少女がクリスマスに不安げに歩いているのを見て、つい手を差し伸べたくなってしまったのだ。
私が発した言葉に青い瞳の少女はこちらを見つめたまま一瞬動きを止めた。時間にしてほんの数秒くらいだろうか? その後に彼女は言った。
「よろしいのですか? それではお言葉に甘えさせていただきますね」
彼女は私の向かいの席に腰を降ろした。そういえば、何も考えずに日本語で声をかけたが、彼女から返ってきた言葉も日本語だった。今考えればとても不思議な光景だったと思う。
「日本語上手なのね」
「ありがとうございます。実は父が日本人なのです」
彼女はニコリと微笑みながらそう答えた。
「そうなの。あ、ごめんなさいね。急に声かけたりして。別に怪しい者じゃないから安心して。見た目で分かると思うけど、この病院で医師をしているの。名前は椎名薫、よろしくね」
私は白衣の胸ポケットの前に付けている名札を彼女に分かるように見せながら言った。
「あなたはお医者様なのですね。ジョイ(女医)さんというのでしょうか?」
「ふふ、様なんて付けてもらえるほど偉くはないんだけどね。まだ研修医上がったばかりの新米みたいなものだから」
基本的には医師免許を取得して最初の2年間は主に先輩医師の指導を受けながら様々なことを学んでゆく、研修医期間が存在する。その期間を経た後に、本当の意味での医師として独り立ちするのだ。私の場合はまだ研修医期間を終了して1年目なので新米医師もいいところなのだ。
「すみません、申し遅れました、私はスオミ……スオミと言います。現在は旭川の叔母の家でお世話になっています」
彼女はぺこりとお辞儀をするとそう答えた。
「スオミ? もしかして母親はフィンランド人かしら? フィンランドって確かスオミ共和国って呼んだりするのよね? あなたと同じ名前ね」
「ハイ、その通りです。お詳しいのですね」
彼女の声のトーンが少し高くなる。
「偶然少し前に本で読んだだけの知識なんだけどね。私、趣味が読書なの。そういえばどうして旭川からこんなところまで? 旭川にも旭川医大とか大きな病院あるわよね? ごめんなさい、話したくなければ無理に話さなくてもいいわ。私が勝手に気になっただけだから」
私は何となく彼女のことが気になった。どういうわけか、初対面の気がしないのだ。とは言っても間違いなく初対面なのだが……。金髪碧眼の少女に以前出会っていれば必ず記憶に残っているはずだ。私は程良い暖かさに冷めたココアをひとくちコクリと口に含み、喉の奥に押しやった。
「実は……数年前に運動中に接触事故を起こしてしまい、膝の前十字靱帯の断裂という大怪我をしてしまいました。その後、相手の方と少し気まずくなってしまい、そのまま父の故郷である旭川にやって来たのです」
彼女は少し伏し目がちに話し始めた。
「それで、怪我の具合は大丈夫なの?」
前十字靭帯の損傷は半月板や内側側副靭帯も同時に損傷する複合損傷が起こる可能性が高い部位であるため、治療が難しいのだ。
「ハイ。怪我の方は完治したと言っても問題ないと思います。ですがどうしても以前のように動けなくて……。それで今回こちらの先生宛に紹介状を書いていただき、受診にきたのです」
完治したという言葉とは逆に彼女は浮かない顔をしている。
「その様子だと、良い結果は得られなかったようね。それに、その原因にあなた自身、心当たりがあるみたいね」
私がそう言うと、彼女はハッとした表情で私の顔を見上げた。
「椎名先生には私の思っていることが分かるのですね、凄いです……」
「そんなことないわ、何となくよ。それに椎名先生って何だかくすぐったい感じがするわ。薫でいいわよ」
私はニコリと彼女に微笑みかけると言葉を続けた。
「それに今日はクリスマスイヴよ。ここでこうして出会えたのは奇跡が起こる前触れかもしれないわよ」
目の前のココアをひとくち口に含み、一旦言葉を止める。
「そうですね、こうして薫さんと出会えたのにはきっと何か意味があるのだと思います。今日というクリスマスの奇跡を私も信じてみようと思います」
どうやら彼女の中で何かしらの決心がついたようだ。
「前向きな気持ちって大切よ。それにフィンランドってサンタクロースの生まれ故郷よね? ならあなたにも今日なら奇跡は起こせるかもね、可愛らしいサンタさん」
彼女の話によると、その接触事故を起こしてしまった彼女の友達は、周囲からわざと事故を起こしたのだと疑いの目で見られたらしく、その後も陰で色々と良くない噂を流されたりと辛い思いをしたらしい。スオミ自身もどうしていいか分からず、動揺してしまい、上手く説明出来ずに、不慮の事故だということを周りに理解してもらえないまま、どんどんその友達との間に距離が出来てしまい、その辛さに耐えかねた末、故郷を後にし、旭川までやって来たのだと言うことだった。
結論から言ってしまえば、周りの人たちがスオミの友達がスオミを陥れようとして起こした事故だと勝手に思い込んでいるということだ。まぁ実際はそんな簡単な話ではないの
「なるほど、辛かったわね。それであなたはその後、親友と話はしたのかしら?」
「い、いえ……。こちら(旭川)に来てからは連絡は取っていません。私のせいで辛い思いをさせてしまったと思うとなかなか連絡する勇気が出なくて……。私のことを恨んでいるんじゃないかって思うと怖くなってしまって……」
俯きながらそう答えた彼女の表情は硬く、今にも泣き出しそうなのを必死で堪えているのが見て取れた。それほどまでに自分を責めてしまうほど、大切な友達だったのだろう。
「そうね……彼女、本当にあなたのことを恨んでいるかしら? 親友だったんでしょう?」
私は彼女に問いかけた。
「ハイ……。誰よりも大切な親友でした」
スオミは私の目をしっかり見据えながら言った。
「なら逆に考えてみたらどうかしら? あなたが親友の立場なら彼女のこと、恨んだりするかしら?」
「そんなこと、絶対にしません! 私の親友はわざとそんなことをするような人ではありません。それは私が一番分かっています!」
彼女の言葉に力が籠もる。
「ふふ、もう答えは出ているんじゃない? 今あなたが言ったことが答えだと思うけど?」
若いっていいわね。つい応援したくなっちゃうわね……。
「あっ……。私……何でこんな簡単なことが分からなかったのでしょうか……。一番の理解者であったはずの私がこんなことではダメですよね。私はいつだって親友の力になりたい、一緒に私達の夢を叶えたい……だけど、フィンランドまではすぐには行けない……。どうしたら……」
その時、彼女の携帯電話が鳴った。
彼女は私の顔を覗き込んでいる。私は「どうぞ」と言う代わりに優しく微笑みながら頷いた。
「もしもし……」
彼女は携帯電話の通話ボタンを押した。
「ヘイ(こんにちは)! スオミ!」
彼女の携帯電話から、こちらにまで聞こえる程の勢いで相手の声が漏れる。
「どうして……? 夢じゃないですよね??」
彼女の瞳からはポロポロと大粒の何だが溢れ出している。フィンランド語で話していることから考えると、電話の相手は相手はおそらく彼女の親友からなのだろう。
時間にすると5分程度経過しただろうか? 彼女は電話を切って、私の顔を見つめた。
「どうやら奇跡が起きたようね?」
「Kiitti(ありがとう)! 本当に奇跡です! 向こうも私と同じ気持ちでした。もっと、早く伝えれば良かった……。日本ではこのようなことを、アンキモよりウニが安しというのでしょうか?」
彼女から発せられた不思議な日本語の意味を一瞬理解出来なかったが、数秒考えた後に意味を理解してクスリと笑ってしまった。
「それ多分、『案ずるより産むが易し』の間違いよね? とにかく良かったわね。クリスマスの奇跡に感謝ね」
休日に会議のために呼び出された時はついてないと思ったが、そのおかげでこうして素敵な出来事に出会えたのだから、やはりクリスマスには何か特別な魔法でもあるのかもしれない。
「それと、スミマセン! 実は親友が私に会うためにフィンランドからやって来たみたいで、実は今旭川空港に到着したらしいのです……。なので私、急いで戻らなければいけません。親友には私の叔母の家の住所を伝えてあるので大丈夫だとは思うのですが……」
彼女は私にそう言うと、旭川の叔母に事情を説明するために連絡を入れた。
「そうなると、ここから札幌駅まで行って、汽車を待つとなるとかなりの時間のロスになるわね……。分かったわ、病院の正面玄関で待っててくれる? 今日はクリスマスイヴだもの、とっておきのトナカイを用意するわ」
彼女にそう告げると、私は急いで更衣室に向かった。
手早く着替えを済ませると、そのまま職員駐車場を目指す。
しばらく歩いて行くとオレンジ色の小さなオレンジ色のスポーツカーが目に入った。私の愛車、フィアット・バルケッタだ。現在は冬なので、幌は収納し、ハードトップに付け替えてある。
運転席に座ると、キーを回し、エンジンに火を入れる。ガソリンは昨日給油したばかりなので問題なし。
「それじゃトナカイさん、よろしく頼むわよ」
そう言うと、正面玄関に向かい走り出した。
正面玄関が近付いてくると、言われたとおり彼女が待っているのが目に入った。
「お待たせ! さっ、乗って!」
「えっ? 薫さん?」
一瞬彼女はこの車を運転しているのが私であることに気付かなかったようだった。確かに女性で左ハンドルのMT車に乗っている人は少ないかもしれないので無理もない反応だ。
「ここから札幌駅に戻って汽車を待つより直接車で旭川に行くほうが早いわ。安心して? ちゃんと寒冷地仕様にしてあるから。私が可愛いサンタクロースを旭川までこのバルケッタ(トナカイ)で送ってあげるわ。 彼女、待ってるんでしょ?」
私は助手席のドアを開けながら彼女に言った。
「すみません、いいのですか?」
「もちろん、せっかく掴んだ奇跡ですものしっかりモノにしないとね。でもお代は高くつくわよ」
悪戯っぽく笑って見せると、彼女を車内に招き入れる。
「行くわよ! このトナカイは小さな見かけによらずパワフルよ」
シフトノブをLOWに放り込み、アクセルペダルを踏み込む。
勢いよくバルケッタは旭川を目指して走り出した。
「あ、安全運転でお願いします!」
車を走らせ1時間半ほど経過しただろうか? 車は滝川を通過中だ。
「知ってる? 滝川市って松尾ジンギスカンの発祥の地なんですって。北海道民なら一家にひとつはジンギスカン鍋があるって言われるぐらいだから、ジンギスカンは道民のソウルフードと言ってもいいかもしれないわね。あなたはジンギスカン好き?」
他愛の無い会話をしながら目的地までの道中を楽しむ。
「はい。大好きですよ。ジンギスカンはソウルフードなのですね。フィンランドでトナカイを食べるのと同じ感じでしょうか? 文化の違いがあるのでしょうが、この話をするとトナカイを食べるなんて残酷だと言われることも多いです……」
彼女は生まれ故郷について色々と話してくれた。
「そうね、確かに日本じゃトナカイと言えば、プレゼントを運ぶサンタクロースのパートナーというイメージが一般的だものね。でもその国にはその国の考え方や文化があるわ。今でこそ日本のお寿司は海外でも人気だけど、国によっては魚を生で食べるなんてあり得ないって考えの国だってあるわ。そこが難しいところでもあり、面白いとこでもあるんじゃないかしら? 私はそう思うわ。機会があれば一度トナカイの料理も食べてみたいわね。って、でもクリスマスにする話じゃないかもね」
「確かにそうですね」
二人で顔を見合わせて笑った。
車を走らせること約2時間20分。可愛らしいサンタクロースを乗せた小舟(バルケッタ)は目的地である旭川に到着した。
「しばらく真っ直ぐ行くとすぐに叔母の家が見えます」
彼女の言う通り程なくすると最終目的地である、彼女の叔母の家に到着した。
家の前には彼女と同じ歳ぐらいの栗色の髪の女の子が息を白く凍らせながら彼女の帰りを待っていた。
「スオミ!」
「ハンナ!」
彼女たちは待ちわびた再会を懐かしみ抱き合った。ここからは二人だけの世界。用の済んだトナカイは退散するとしよう。
「それじゃ私はこれで。素敵なクリスマスを」
そう言って彼女たちに手を振った。
「薫さん! 本当にありがとうございました! なんとお礼を言ったらいいか…私……」
スオミが駆け寄ってくる。
「あら? お代は高くつくって言ったわよね? そうね、この貸しは見事に復帰してリンクの上で返してもらおうかしら、銀盤の妖精さん?」
私は悪戯っぽくそう言って笑ってみせた。
「知っていたのですか?? そういえば私はハンナのこと親友としか言ってなかったのに女性であることも分かっていたようでしたよね……」
スオミは少し驚きながら言った。
「ふふ、あなたはあなたが思っている以上に有名人なのよ。それじゃ期待しているわね」
「ハイ、必ずリンクに戻ります! そして約束を果たしますから見ていて下さいね!」
そう言ったスオミに手を振り車を走らせる。何とも清々しい気分だ。
一人じゃ出来ないもの…にらめっこ、腕相撲、卓球、恋愛…そして仲直り……。
あれから数日が過ぎ、新しい歳を迎えた。お正月だからと言って私、椎名薫は特に変わりも無く日々仕事に明け暮れている。
この時期は正月というめでたい日とは裏腹に自分の限界を知らず酔い潰れた急性アルコール中毒の患者が良く運ばれてくるのだ。それを診察し、点滴を実施する医者としてはめでたくもなんとも無い……。むしろ勘弁して欲しいものだ。
そんな患者を一通り診察し終え、医局に戻り一息つく。
しばらくすると、コンコンと医局のドアがノックされた。
「どうぞ」
そう言うと同時にナースが部屋に入って来た。
「どうしたの?」
「椎名先生宛てに年賀状が届いていました」
そう言って1通の年賀状を私に差し出す。誰からだろうか?
「差出人は外国人でしょうか?」
年賀状を持ってきたナースが名前を見てそう言った。
「いいえ、可愛らしいサンタクロースからよ」
Fin